月 僊 げっせん
   

竹画・賛
横最大50p

寛保元年(1741)生〜文化6年1月12日(新暦 1809年2月25日)歿
 画僧。俗姓は丹家氏。名は玄瑞・元瑞。字は玉成。尾張国名古屋の味噌商の家に生まれる。7歳で得度、玄瑞の名を与えられて浄土宗の僧となる。
 生まれつき絵が好きで、仏門修行の傍ら、雲谷派に連なり雪舟12代を称していた桜井雪館に画を学ぶ。10代で江戸芝増上寺に入った。増上寺の大僧正定月は、彼の絵の才能や修行ぶりを誉めて、自分の名の一字を取って「月僊」の号を与えた。その後、京都の浄土宗総本山知恩院に修行することとなり、写生表現を重視した円山応挙の門に入った。また、与謝蕪村を尊敬し、中国の絵画をも学び、さらに諸派に学んで独自の画風を確立した。
 安永3年(1774) 月僊34歳のとき、知恩院の大僧正に懇願され、当時荒れ果てていた伊勢国宇治山田(現在・三重県伊勢市)の栄松山寂照寺を立て直すため、そこの住職となる。その年の夏、台風被害を受けた御師春木太夫の建物の襖と屏風絵を頼まれていた円山応挙が病気のため辞退し、代わりに月僊がそれを描き上げた。山水・人物を得意とし、人物の形影が寂寥としていることを特長とする。こうしたことから、画名が高まり画を請う者が絶えず、誰に乞われても必ず画料を取るところから「乞食月僊」と世に知られで、巨万の富を積みさらに銭をむさぼること甚だしいため、譏る人も多かった。
 しかし、彼は報酬を一銭も自分のものとせず、寛政12年(1800)から享和3年(1803)にかけて寂照寺の伽藍・山門を建て、経典を購入して倉におさめ、文化元年(1804)から5年ごろには、月僊は1,500両を山田奉行に託し、その利子で近郷の貧しい人々を救助するようにした。人々は、その恩徳を讃えて、この基金を「月僊金」と呼び、みなその功徳に服すようになったという。さらに、彼は橋を架けることや道路の改修にも多くの資金を出したと伝えられている。
 「列仙図賛」「耕織図」「月僊画譜」などをはじめ、上記のことから数多くの作品があり、門下に立原杏所・亜欧堂田善・村松以弘などがいる。
 賛に、月僊の左に白文の「月僊」、同じく白文の「元瑞」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://www.library.pref.mie.lg.jp/mini/044/mn044.htm
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail.asp?record=88
http://www.hyakugo.co.jp/mie/03/10/k03.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%83%8A
http://www7b.biglobe.ne.jp/~garamdoh/1-2garou/taihaku/denki/gessen.htm
http://miuse.mie-u.ac.jp/bitstream/10076/5499/1/AN100660460530007.PDF
http://www.mie-u.ac.jp/report/wm/wm045_22_23.pdf#search='%E5%83%A7%E6%9C%88%E4%BB%99'


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